人は安心できると、本来の力を発揮する

「怒られなかったことが、とてもありがたかったです」
新入社員研修最終日。
少し涙をこらえるようにしながら、 こんな言葉を伝えてくれた新入社員の男性がいました。
ずいぶん前の企業研修での出来事です。
人は緊張感のある空間に身を置くと、 心も身体も縮こまりがちです。
本来の力が発揮できなかったり、 自分にブレーキをかけてしまったり。
そんな経験はありませんか?
ですから私は、研修の場が「安心して臨める空気」 になるよう心がけています。
人は安心できると、本来持っている力を発揮できるようになる。
長年研修に携わる中で、私は何度もその姿を見てきました。
私自身、どちらかというと「きちんとしていなければ」 という思いが強い人間でした。
もちろん真面目であることは素晴らしいことです。
けれど「常に正しくなければ」という気持ちが強すぎると、 時に人は自分自身を縛ってしまいます。
そしてその緊張感は、 知らず知らずのうちに周囲にも伝わってしまうように思うのです。
ある年の新入社員研修で、ひとりの男性が遅刻をしてきました。
気まずそうに教室へ入り、 どこか投げやりな雰囲気で席に座った彼。
本来であれば、社会人としてまず「申し訳ございません」 の一言があれば素晴らしかったと思います。
でも私は、その時あえて注意をしませんでした。
なぜなら、本人が一番わかっているように感じたからです。
今ここで強く注意をすれば、 彼はさらに心を閉ざしてしまうかもしれない。
そう感じました。
ですから私は穏やかに、
「今ここまで進んでいますよ。」
「テキストのこちらを開いてくださいね。」
とだけ伝え、他の受講生の皆さんと同じように接しました。
もちろん研修の中では、時間の大切さや挨拶、 人との向き合い方についてもお話しています。
ただ正しさを教えるためではありません。
なぜそれが必要なのか。
そして、人との関係や空気がどう変わるのか。
そんなことを、私はいつもお伝えしています。
研修が進むにつれて、彼の姿勢が少しずつ変わっていきました。
最初は気だるそうだった彼が、背筋を伸ばし、 真っ直ぐこちらを見るように。
メモを取り、 ディスカッションでも率先して意見を話すようになっていったので す。
メモを取り、
そして最終日。
感想発表の時間、彼は前に立ち、 私の方を真っ直ぐ見ながらこう話してくれました。
「見捨てずに、優しく向き合ってくださったこと、 とてもありがたかったです。」
教室の空気が一瞬静かになったことを、今でも覚えています。
もちろん、私は遅刻を認めたわけではありません。
でも人は、ただ正されるだけでは前を向けないこともあります。
その時の状態や状況によっては、 まず安心できることの方が必要な場合もあると思っています。
ゴールは同じでも、そこへ向かう道筋は人によって違います。
時には遠回りに見えても、 相手が自分の足で歩き出せる道を一緒に探していくこと。
それもまた、人と向き合うということなのかもしれません。
私はこれまでの研修を通して「人が変わる瞬間」 を何度も見てきました。
そしてその多くは、 安心できる空気の中で起きていたように思います。
人は安心できると、本来の力を発揮します。
その人らしさを取り戻し、自ら前へ進み始められるのです。
研修最終日に彼が話してくれた、
「怒られなかったことが、とてもありがたかったです。」
という言葉。
あの言葉は今でも私の心に残っています。
人を育てるということは、 正しさを伝えることだけではないのかもしれません。
相手を信じ、安心して挑戦できる場を整えること。
その積み重ねが、 その人の持つ力を引き出していくのだと思っています。
ですから私はこれからも、 安心して一歩を踏み出せる場を大切にしていきたいと思っています。